第二十巻 如意宝珠 未の巻 <凡 例>
2008/05/08(Thu)
凡   例


 ストーナー夫人は言つてゐる。『総(すべ)ての子供は生れながら、第六の感覚 − 諧謔(ユーモア)の感じを持つてゐる。しかし多くの者は、その育つ環境のためにこの感覚を鈍らされ、或(あるひ)は夙(と)くから失つてしまふものである。楽しいものを見ても、笑ふ − 心の底から笑ふことが出来ず、苦笑(にがわら)ひや忍び笑ひすら出来ない人間ほど哀れに思はれるものはない。顔面筋肉の痙攣(けいれん)のために、冷笑したやうな表情に苦しむ人の如く、絶えず歯を露(あら)はしてゐる必要は少しもない。が小さい時から愛とほほゑみに取りまかれて育つた子供は、実に自然に笑ひ、またユーモアに敏感である。彼は苦悩の真中(まんなか)に在(あ)つても、あらゆる事物の面白い半面を眺めることが出来る。彼は常に楽天家である。そしてこの事は、世の中で成功する男も女も、楽天家であるといふ事実を証明するものである。真(しん)の厭世家(えんせいか)が勝利を得(う)ることは決してない』と。実際夫人の言つてゐるやうに『笑ひ』位人間生活にとつて貴(たふと)いものはない。『笑ひ』は人間の本能である。殊(こと)に日本人(にほんじん)は一般に諧謔(ユーモア)好き、喜び好きで悲しみが嫌ひだといはれる。我々は何時(いつ)までもペシミズムの暗い室(へや)の中にうめいてゐる必要はない。『霊界物語』の読者は、このストーナー夫人の言(げん)を味はつて見る必要がある。『物語』を読んで笑ふことの出来る人は幸福である。馬鹿らしいと感ずる人は、きつと不幸な人に相違ない。

   大正十二年三月三日                        編 者 識



     老若の区別(けじめ)もしらにゑらゑらと
          ゑらぎ親しむ神の道なり




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