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第二十一巻 如意宝珠 申の巻 <総説>
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2008/06/25(Wed)
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総 説
霊界は想念の世界であつて、無限に広大なる精霊世界である。現実世界は凡(すべ)て神霊世界の移写であり、又縮図である。霊界の真象(かたち)をうつしたのが、現界、即ち自然界である。故に現界を称してウツシ世と言ふのである。例之(たとへば)一万三千尺の大富士山(だいふじさん)を僅か二寸四方位の写真にうつした様なもので、その写真が所謂(いはゆる)現界即ちウツシ世である。写真の不二山(ふじさん)は極めて小さいものだが、其(その)実物は世人(せじん)の知る如く、駿(すん)、甲(かふ)、武(ぶ)三国(さんこく)にまたがつた大高山(だいかうざん)であるが如く、神霊界は到底現界人の夢想だになし得ざる広大なものである。僅か一間(いつけん)四方位の神社の内陣(ないぢん)でも、霊界にては殆ど現界人の眼(め)で見る十里四方位はあるのである。凡て現実界の事物は、何(いづ)れも神霊界の移写であるからである。僅(わづか)に一尺足らずの小さい祭壇にも、八百万(やほよろづ)の神々や又は祖先の神霊が余り狭隘(けふあい)を感じ玉はずして鎮(しづ)まり給ふのは、凡て神霊は情動想念の世界なるが故に、自由自在に想念の延長を為し得(う)るが故である。三尺四方位の祠を建てておいて下津岩根(したついはね)に大宮柱太敷立(おほみやばしらふとしきたて)、高天原(たかあまはら)に千木高知(ちぎたかし)りて云々と祝詞を奏上するのも、少し許(ばか)りの供物(くもつ)を献じて、横山(よこやま)の如く八足(やたり)の机代(つくゑしろ)に置足(おきた)らはして奉(たてまつ)る云々とある祝詞の意義も、決して虚偽ではない。凡て現界はカタ即ち形(かたち)の世界であるから、その祠も供物も前に述べた不二山の写真に比(ひ)すべきものであつて、神霊界にあつては極めて立派な祠が建てられ、又八百万(やほよろづ)の神々が知食(きこしめ)しても不足を告げない程の供物となつて居(ゐ)るのである。凡て世界は霊界が主で現界即ち形体界が従である。一切万事が霊主体従的に組織されてあるのが、宇宙の真相で大神(おほかみ)の御経綸である。現実界より外(ほか)に神霊界の儼然(げんぜん)として存在(そんざい)する事を知らない人が斯(こ)んな説を聞いたならば定めて一笑に附して顧(かへり)みないでありませう。無限絶対無始無終の霊界の事象は、極限された現界に住む人間の智力では、到底会得(ゑとく)する事は出来ないでせう。 この物語は、現(げん)、幽(いう)、神(しん)、三界を一貫し、過去と現在 未来を透徹したるが故に、読む人々に由(よ)つて種々(しゆじゆ)と批評が出るでせうが、須(すべか)らく現実界を従とし、神霊界を主として御熟読あらば、幾分か其(その)真相を摑む事が出来るであらうと思ひます。 惟神霊倍坐世(かむながらたまちはへませ)。 大正十一年五月廿一日 於松雲閣 口述著者識 ○ 掌(てのひら)を覆(かへ)すが如くかはるなり 善と悪との報いはたちまち 惟神(かむながら)みちの奥処(おくが)に分け入れば 万代(よろづよ)散らぬ花の匂へる ○ 我身魂(わがみたま)われの所有(もの)とは思ふまじ 髪一筋も儘(まま)ならぬ身ぞ 百千々(ももちぢ)の心の曇り晴れにけり 雲井(くもゐ)の空の月をし見る夜(よ)に 思ひきや賤(しづ)が伏家(ふせや)に生(あ)れし身の 神の大道(おほぢ)に奉仕せむとは |
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」と言って帰ってきました(笑)