第十二巻 第四篇 古事記略解 <第三十章 天の岩戸 (526)>
2008/07/01(Tue)
第四篇 古事記略解


<第三〇章 天の岩戸 (五二六)>

 今迄耐(こら)へに耐へておいでになつた天照大御神(あまてらすおほみかみ)は、余りの事に驚き且(かつ)お怒(いか)り遊ばして是ではもう堪らぬといふので、天の岩屋戸(あまのいはやど)を建ててその中にお入りになり、戸を堅く閉してお籠(こも)りになつて了(しま)つた。是も亦(また)形容でありまして、小さく譬(たとへ)て見ますれば、この東京市(とうきやうし)は市長が治めて居(を)る。然るに到底私(わたくし)の力では東京は治まらない、仕方がないと言つて辞職して了ふ。市役所に出て来ない様になる。一国(いつこく)に就(つい)て言へば総理大臣が私(わたくし)の力ではこの国は治まらないからと言つて辞職して了ふ。一国にしても一市(いつし)にしても、主宰者が居(を)らぬでは外(ほか)の者にはどうする事も出来ないと云ふ其人(そのひと)に辞職されて了うたなら其国(そのくに)なり其市(そのし)なりはどうでせう。詰り此(この)只今でいふ辞職といふのが、天の岩屋戸へ天照大御神がお籠(こも)りになつたと同じ様なことであります。
 『即ち高天原(たかあまはら)皆暗く葦原の中津国(なかつくに)悉(ことごと)に闇(くら)し』
 真暗闇(まつくらやみ)では何(ど)うしようにも方針がつかない、葦原の中津国の大政府が仆(たほ)れた為に其(その)所在地たる高天原(たかあまはら)を初め全国が火の消えたる如くになつて了つた。下(しも)の方の者では施政の方針が分らない。どうもかうも手のつけ様がない。
 『茲(ここ)に万(よろづ)の神のおとなひは、五月蝿(さばへ)なす皆湧き、万(よろづ)の妖(わざはひ)悉(ことごと)に発(おこ)りき』
 今度はもう昼も夜もない真暗がりぢや。斯(か)うなつて来ると世の中はどうなり行くか、丁度今日に就(つい)て考へて見ると面白い。政治は勿論教育も経済も、内治(ないぢ)も外交も滅茶苦茶である。一切万事真暗がりの世になつてゐる。どこにどうしようにも見当がつかない。斯(か)うなつて来ると、此(これ)に発して来るのは各階級の風俗の紊乱(びんらん)であります。不良人民(ふりやうじんみん)が殖ゑ窃盗が横行し、強盗が顔を出す、神代(かみよ)に於(おい)ても、万(よろづ)の妖(わざはひ)が総ての事に、彼処(あちら)にも此処(こちら)にも五月(ごぐわつ)の蝿(はい)の如くに発生して来たのである。之(これ)を天の岩屋戸隠れと申すのでありますけれども、今日の世態(せたい)を考へますと、恰(あだか)も神代に於(お)ける岩屋戸の閉(た)てられた時と同じやうに思はれます。
 『是(これ)を以て八百万の神(やほよろづのかみ)』
はどうする事も出来ないから、
 『天の安河原(あまのやすかはら)に神(かむ)集ひに集ひて』
相談をなされた。之(これ)を高天原(たかあまはら)即ち天上の議場に集まつたのだと云ふ人もあります。平等なる神々様が、物を洗ふ、流すと云ふ意味の公平無私なる土地に集まつたのであります。安(やす)ということは安全と云ふことで、この安らかなる地点即ち風水火(ふうすゐくわ)なり饑病戦(きびやうせん)なりその他総ての禍災(くわさい)を防ぐことの出来る、然も何等(なんら)圧迫を被(かうむ)ることのない場所であります。さうしてこの清らかな場所へは、上下貴賤の区別なく総ての人々が、国を憂ひ、国家を救はなくてはならぬと云ふ、潔(きよ)らかな精神を以て集まつて来たのであります。
 『高御産巣日(たかみむすび)の神の御子(みこ)、思兼(おもひかね)の神に思はしめて』
 この思兼(おもひかね)の神は今日でいうと枢密院の議長といふ様な役目であります。一番思慮の深い人、さうして神の教(をしへ)を受けた人、この人に天の岩屋戸を開き天下を救ふべき方法を尋ねまして、その結果、
 『常夜(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)の集へて鳴かしめて』
 常夜といふのは常闇(とこやみ)の世の事であります。即ち永遠無窮に日月(じつげつ)と共に、国事に就(つい)て憂ひ活動をして居(を)る神、此等(これら)の神等(かみたち)を集めて泣かせるといふのは各々(めいめい)に意見を吐かせると云ふ事である。その結果、
 『天(あめ)の安の河の河上の天の堅岩(あまのかたいは)を取り、天の金山(あまのかなやま)の鉄(かね)を取りて、鍛人(かぬち)、天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売の命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せて鏡を作らしめ』
 この堅い石(いは)を取るといふことは、皇化万世(くわうくわばんせい)動かぬ岩に松といふ、天から下つた所の教(をしへ)を取るといふことである。天の金山(あまのかなやま)の鉄(かね)を取るといふことはどちらもカネである。鍛人(かぬ)、これは鍛治屋といふ意味でありますけれども、総て世を治めるに必要なる道具、一切の武器などを拵へたのであります。次に鏡を造らしめる。鏡は人物の反映である。霊能の反映である。故に歴代の天皇は之を御祀(おまつ)りになつて居(を)る。鏡は皇室の宝物になつて居(を)るのであります。鏡は神であります。さうして言霊(ことたま)であります。言霊七十五音(ことたましちじふごおん)を真澄の鏡(ますみのかがみ)と申します。三種の神器(しんき)の一(ひとつ)を八咫の鏡(やあたのかがみ)と申すのは即ち七十五声の言霊であります。それから言霊が日本人(にほんじん)のは非常に円満晴朗であるといふのは、是(これ)は日本(にほん)の国に金(きん)の徳があるからであります。地の中に金といふものが多い、外国と違うて黄金(わうごん)の精が多い。故に日本人の音声は清いのであります。鳴物でも金が入つて居(ゐ)ると善(よ)い音(ね)が出ます。金の多いと云ふ事の為に天の金山(あまのかなやま)の鉄(かね)を取りてと出て居(を)るのであります。それから伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に鏡を作らしめるとは、伊斯許理度売命の伊(い)は発音であつて、斯許理(しこり)といふのは熱中することで、一生懸命に国の為に奔走する神、さういふ神を寄せて言霊の鏡を作らせたのであります。次に、
 『珠(たま)を作らしめ』
 又
 『天の香山(あまのかぐやま)の真男鹿(さをしか)』
の角(つの)を取つて占なはしめることになつた。天の香山(あまのかぐやま)といふのは鼻成山(はななすやま)と云ふ意義で、神人(しんじん)を生かす山の事であります。此(この)
 『天の香山の真男鹿(さをしか)の肩を打抜きに抜きて』
 さうして何(ど)ういふことをしたらよいか神勅を乞はれたのであります。今の神占(おみくじ)は殆んどそんなことはありませぬが、昔は鹿の骨を火に焼いて、その割目(われめ)で吉凶を占うた。実際八百万の神が集まつて、種々雑多なことをして国の為めにどうしたらよいかと考へた。其中(そのうち)には易(えき)を見る神もあつたので御座います。易を見て方針を決めたり、其他(そのた)いろいろに考へ、四方八方から考へて行(い)つた結果、そこで初めて、岩屋戸を開(ひら)くに就ては祭典をして天神地祇(てんしんちぎ)を祭らなくてはいかぬといふことに決つた。先づ、
 『真賢木(まさかき)を、根抜(ねこぢ)に掘(こぎ)て、上枝(ほつえ)に八咫(やさか)の勾珠(まがたま)の、五百津(いほつ)の御統麻流(みすまる)の珠を取り著(つ)け、中枝(なかつえ)には、八咫鏡(やあたかがみ)を取りかけ、下枝(しづえ)に、白丹寸手(しろにぎて)、青丹寸手(あをにぎて)を取り垂(し)でて』
 つまりこれは今日で言ふ神楽であります。伊勢神宮では昔から十二組の大神楽(だいかぐら)がありますが、これは岩屋戸開きの事をお示しになつて居(を)るのであります。
 前にも申上げましたやうに現代の世態を考へますると今日は所謂(いはゆる)世界の大神楽を奏しなくてはならぬときであります。あのお神楽のときに出て参りまする翁獅子(おきなじし)、あれは既に大きなおそろしい面(つら)をした獅子を被つて、刀を口にくはへ毛を下(た)らして居(を)る。この形は何であるか。眼(め)は金(きん)、鼻の孔(あな)も金、歯も金、而(しか)も其(その)口を動かして、本当に恐ろしいやうであるけれど、真中(まんなか)に人が入(はい)つて操つて居(を)るばかりか、頭(あたま)の方こそ立派だが後(うしろ)の方には尾も何もない。だんだらの条(すぢ)のやうなものが入つてゐる布に過ぎない。そこにも人が隠れて居(ゐ)て前の者と調子を合せて操つて居(ゐ)る。これが獅子舞の真相であります。所で今日の世界の外交術は皆この獅子舞であります。表面は非常に大きないはゆる獅子口を開けて、今にも噛みつきさうにして、怖ろしいやうであるが、中に入つて見ると、人が獅子の口を開(あ)けて舞うてゐるのである。ちやうど今日(こんにち)は神楽をあげてゐるのである。それから大神楽のときに芸人が鞠を上げたり、下(おろ)したりする。これは霊(みたま)の上(あが)り下(さが)りを示して居(を)るのである。また一尺位の両端に布切れの付いた妙な棒のやうなものを上げたり下(おろ)したりする。これは世の中の柱が、上のものは下敷となり下のものは上になりて行く、即ち立替(たてかへ)をするといふことを示してあるのである。それから盆の上や傘の背に一文銭を転がせて一生懸命きりきり廻して居(を)る。これは何をして居(を)るのであるかといふと、今日の世の中は金融が逼迫(ひつぱく)して、一文(いちもん)の金(かね)も一生懸命に走り廻つてゐる。千円の財産でもつて一万円も二万円もの仕事をしてゐる。だから一朝(いつてう)経済界の変調が起るとポツツリ運転が止つて了(しま)。さう云ふ工合(ぐあひ)に金融が切迫してゐると云ふ事を表(あらは)してゐる。次に劔(つるぎ)の舞をやつて居(を)る。頭(あたま)を地につけて反(そ)り身になつて一生懸命にやつてゐる。これはいはゆる危険な相互傷(きずつ)き倒れると云ふ戦争をして居(を)る意味である。それから茶碗に水をつぎ込み長い細い竹の先にのせて、下から芸人がキリキリ廻して居(を)る。あの通り危(あやふ)い。茶碗が落ちたらポカンと割れる。無論水はこぼれる。所が落ちないのはこのキリキリ廻して居(を)る竹の所が要(かなめ)であるからで、すなはち要を握つて居(を)るからであります。要と云ふものは中心である。いはゆる神であるからして引(ひ)つくり覆(かへ)らぬ。又おやまの道中と云ふ事をやりますが神楽が出来て、獅子舞姿でおやまの道中をして居(を)る真似をする。ちやうど今日の世の中の様に男の頭の上に女が上(あが)つて居(を)るやうな工合になつて居(を)る。それから獅子舞の後持(あともち)といふのがある。さうしておやまの道中には傘をさして妙な獅子舞を致しますが、今日の世の中に於きましても男が下になり女が上になつて之を使つてるのと同じ事でありますが、またこの獅子舞は達磨大師(だるまだいし)の真似をして見せる。足を下にして大の字になつたり、逆様にひつくり返つたりして見せる。上になつたり下になつたりキリキリ舞をしてゐる。後持(あともち)が大の字になつて見せたり逆様になつて見せたりする。上のも大の字、中のも大の字、あとのも大の字逆様ぢやと申して一生懸命やつてゐる。一方では大神楽の親父と云ふのがあつて、片方で芸人の真似をしては邪魔をしたり、いらぬ口を叩いたりして、頭をポンと敲(たた)かれたり、突かれたりしてお客さまを笑はせる。笑はせる丈ならよいが大変な邪魔をする。この親父は啞(おし)や聾(つんぼ)の真似をして舞もせずに邪魔をする。今日の世の中にもかう云ふ獅子舞の親父がゐる。元老とか何とか言うて、若い屈強盛りの者が一生懸命に芸当をやつてゐる所へ口嘴(くちばし)を出したり、邪魔をしたりする、時には頭をポンとやられる。さうして一番しまひに弐円(にゑん)なり五円なりの金をせしめる。芸をすませて、親父はアバババと言うて帰つてしまふ。このアバババは言霊から申しますと、総ての物の終り、、大船(おほふね)が海上で沈没をした時や、開(あ)いた口が閉(ふさ)がらぬ様な困つて失望したとき、どうもこうも出来ぬやうな苦境に陥つてしまつたと云ふ時の表示であります。兎に角、今日の世の中は大神楽を廻して居(を)る時であります。神代(かみよ)の岩戸開きの神楽と、今日の世の神楽とは余程変つて居(を)りますけれども、その大精神に於ては同一であります。
 神楽舞の時に囃子(はやし)が太鼓を打つのは大砲や小銃弾や爆裂弾の響き渡る形容であり笛を吹くのはラツパを吹き立てる形容であり、銅鉢(どうばち)を左右の手に持つてチヤンチヤン鳴らし立てるのは、世界が両方に別れて互(たがひ)に打合ふという事の暗示であります。
 そこで、
 『天の宇受売命(あめのうづめのみこと)、天の香山(あまのかぐやま)の天(あま)のひかげを、手次(たすき)に繋(か)けて、天の真析(あめのまさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の岩屋戸に空槽(うけ)伏せて』
 いろいろの葉を頭につけたり、葛(かづら)を襷(たすき)にかけたりして、岩屋戸の前へ行つて、起きたり逆様になつたり、足拍子を取つてどんどん どんどんやつた。
 『踏み動響(とどろか)し、神懸(かむがかり)して、胸乳(むなちち)を掻き出で、裳紐(もひも)を陰上(ほと)に押し垂れき』
 岩屋戸を開く為に、宇受売の命が、起きたり、逆様になつたり、一生懸命に神懸(かむがか)りをやつた。神懸りに就いてはここには省略する。これはその人一人の事ではありませぬ。宇受売と云ふのは、女の事を申しますが、俗に男女(をとこをんな)と言はれる女であつて、男のやうな強い人をオスメまたはオスシと言ひます。これは宇受売から初まつたのである。女は女らしくしなければならないので御座いますけれども、然し乍ら、天の岩屋戸の閉つたと言ふ様な国の大事の際には、女だとて女らしくして居(ゐ)られない場合があります。男も女も神様がなされました様に一生懸命になつて国事に奔走せなければならぬ。総て女と云ふ者は人の心を柔げる所の天職を有(も)つて居(を)ります。今誰も彼(かれ)も、皆の者が岩戸開きの為に心配をしてゐる。顔をしかめて考へ込んでゐるその際に、宇受売命、すなはち男勝りの女が出て来て、とんだり、跳ねたり、腹匐(はらば)うたり、面白い事をして見せたり、いはゆる国家的大活動をした為に、
 『かれ高天原(たかあまはら)、動(ゆす)りて八百万の神、共に咲(わら)いき』
 一度にどつと笑つた。非常に元気づいて国家の一大難局を談笑快楽の中(うち)に治めて了つたのであります。現代に於ても女の方(かた)も活動して下されまして岩屋戸の開(ひら)く様にせなければならぬと存じます。昔もさうでありました。
 『ここに天照大御神(あまてらすおほみかみ)、怪しと思ほして、天の岩屋戸を細目に開きて、内より告(の)り給へるは』
 岩屋戸に隠れてゐられました大神様は、今私は岩屋戸に隠れて了つた以上は、葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)も、天地も共に真闇(まつくら)になつて、さぞ神々は困つてゐるであらう、と思ふに何故(なにゆゑ)か岩屋戸の外で、太鼓を打つ、鐘を叩く、笛を吹く、どんどん足拍子がする、宇受売の命が嬉しさうに騒ぐ、八百万の神たちが一緒になつてどつと笑ひ遊ぶ。余り不思議に思はれて中から仰せになつた。
 『吾(あ)が隠れますに因(よ)りて、天の原(あまのはら)自(おのづか)ら闇(くら)く、葦原の中津国(あしはらのなかつくに)も皆闇(くら)けむと思ふを、何故(などて)天宇受売は楽(あそ)びし、亦(また)八百万の神、諸々(もろもろ)笑ふぞ』
 何故(なにゆゑ)そんなにをかしいか。すると天宇受売命が、
 『汝(な)が命(みこと)に益(まさ)りて、貴き神坐(いま)すが故に、歓咲(ゑら)ぎ楽(あぞ)ぶと申しき』
 何でもその国に大国難が出来たときは皆(み)なの顔色(がんしよく)は変るものである。お筆先にも
 『信仰がないと正勝(まさか)のときには大方顔色(かほいろ)が土のやうになるぞよ』とあります。信仰が出来て神諭の精神が解り神の御心に叶へばやれ来たそれ来たと、勇むで大国難を談笑遊楽の間(あひだ)に処理する事が出来るのである。私は永年間(ながねんかん)御神諭を拝し、かつ御神意を少し許(ばか)り了解さして頂いただけでも、心中平素に安く楽しき思ひに充ち、如何なる難事に出会(しゆつくわい)しても左迄(さまで)難事と思はず、何事も神の思召(おぼしめし)と信じて、人力(じんりよく)のあらむ限りを安々と尽さして頂いて居ります。凡(すべ)て事業は大事業だとか、大難事だとか思ふやうでは、回天の神業(しんげふ)は勤まらない。三千世界の立替立直しに対しても夫(そ)れが完成は浄瑠璃一切(ひとき)り稽古する位により思つて居らないのですから、実に平気の平左(へいきのへいざ)で日夜神業に面白く楽しく奉仕して居ります。然(さ)う云ふ工合に、総ての神様が信仰の下に、喜び勇んで元気よく活動されたのであります。それで何故、諸々笑ふぞとお尋ねになつた。そこで、あなたに優つた偉い神様がおいでになつたから喜び勇んで居りますと答へられた。
 すでにその前に天の児屋根命、これは祭祀のことを掌(つかさど)つた神様、後(のち)には中臣(なかとみ)となつて国政を料理した藤原家の先祖であります。この神様がその時天神地祇(てんしんちぎ)にお供へをしたり、太玉命(ふとたまのみこと)が太玉串(ふとたまぐし)を奉(たてまつ)つて神勅を受け、一方占(うらなひ)の道によつて、万事万端、ちやんと手筈が整つたあつたので御座います。所へ案の如く天照大御神様は、
 『愈(いよいよ)奇(あや)しと思ほして』
そつと細目に戸をお開けになつた。するとそれがパツと鏡に映つたので、
 『天の手力男神、其手(そのて)を取りて引き出しまつりき』
 その間(あひだ)に布刀玉命(ふとたまのみこと)が注連縄(しめなは)をその後(あと)に引き渡して、此処より中(うち)にはもうお入り下さいますなと申した。これで天地は照明になつた。この鏡に天照大御神の御姿(みすがた)が映つたとありますのは、つまり言霊(げんれい)で御座います。八咫の鏡(やあたのかがみ)は今は器物にして祀られて天照大御神の御神体でありますが、太古は七十五声の言霊(ことたま)であります。各々(めいめい)に七十五声を揃へて来た。すなはち八百万の誠の神たちがよつて来て言霊を上げたから岩屋戸が開(あ)いたのであります。天津神の霊をこめたる言霊によつて再び天上天下が明かになつたのであります。決して鏡に映つたから自分でのこのこ御出ましになつたと言ふやうな訳ではありませぬ。つまり献饌(けんせん)し祝詞を上げて鎮魂帰神の霊法に合致して、一つの大きな言霊と為して天照大御神を、見事言霊にお寄せになつたのであります。それから注連縄(しめなは)、これは七五三(しめなは)と書きます。その通り、この言霊と云ふものは総て七五三(しちごさん)の波を打つて行くものであります。さうして注連縄を引き渡してもう一辺岩屋戸が開(ひら)いた以上は、再び此(これ)が閉(ふさ)がらぬやうにと申上げた。
 『かれ、天照大御神、出で坐(ま)せる時に、高天原(たかあまはら)も葦原の中津国(あしはらのなかつくに)も自(おのづか)ら照り明りき』
 言霊の鏡に天照大御神の御姿(おすがた)が映つて、総ての災禍はなくなり、愈(いよいよ)本当のみろくの世に岩屋戸が開(あ)いたのであります。そこで岩屋戸開(びら)きが立派に終つて、天地照明、万神自(おのづか)ら楽しむやうになつたけれども、今度は岩屋戸を閉めさせた発頭人をどうかしなければならぬ。天は賞罰を明かにすとは此処で御座います。が岩屋戸を閉めたものは三人や五人ではない、殆ど世界全体の神々が閉めるやうにしたのである。で岩屋戸が開(ひら)いたときに、之を罰しないでは神の法(ほふ)に逆らふのである。併(しか)し罪(つみ)するとすれば総ての者を罪(つみ)しなければならぬ。総てのものを罰(ばつ)するとすれば、世界は潰れて了ふ。そこで一つの贖罪者(とくざいしや)を立てねばならぬ。総てのものの発頭人である。贖主(あがなひぬし)である。仏教でも基督教でも斯(か)う云ふので御座いますが、とにかく他(た)の総ての罪ある神は自分等(じぶんら)の不善なりし行動を顧みず、勿体なくも大神の珍の御子(うづのみこ)なる建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)御一柱(おひとはしら)に罪を負はして、鬚(ひげ)を斬り、手足の爪をも抜き取りて根の堅洲国(ねのかたすのくに)へ追ひ退(の)けたのであります。要するに大本の教(をしへ)は変性男子(へんじやうなんし)と変性女子(へんじやうによし)との徳を説くのであります。変性男子の役目と云ふものは総て世の中が治まつたならば余り六ケ敷(むつかし)い用は無い、統治さへ遊ばしたら良いのであります。之に反して変性女子の役はこの世の続く限り罪人の為めに何処までも犠牲になる所の役をせねばならぬので御座います。岩屋戸開きに就(つい)てはこれからさきに申し上げますと尚いろいろのことがありますけれども、今日(けふ)はまづ岩屋戸が開(ひら)いて結末がついた所まで申上げておきます。
                                     (大正九・一〇・一五 講演筆録)
        (大正一一・三・七 旧二・九再録 高熊山御入山二十五年記念日 松村真友録)






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第二十一巻 如意宝珠 申の巻 <総説>
2008/06/25(Wed)
総   説


 霊界は想念の世界であつて、無限に広大なる精霊世界である。現実世界は凡(すべ)て神霊世界の移写であり、又縮図である。霊界の真象(かたち)をうつしたのが、現界、即ち自然界である。故に現界を称してウツシ世と言ふのである。例之(たとへば)一万三千尺の大富士山(だいふじさん)を僅か二寸四方位の写真にうつした様なもので、その写真が所謂(いはゆる)現界即ちウツシ世である。写真の不二山(ふじさん)は極めて小さいものだが、其(その)実物は世人(せじん)の知る如く、駿(すん)、甲(かふ)、武(ぶ)三国(さんこく)にまたがつた大高山(だいかうざん)であるが如く、神霊界は到底現界人の夢想だになし得ざる広大なものである。僅か一間(いつけん)四方位の神社の内陣(ないぢん)でも、霊界にては殆ど現界人の眼(め)で見る十里四方位はあるのである。凡て現実界の事物は、何(いづ)れも神霊界の移写であるからである。僅(わづか)に一尺足らずの小さい祭壇にも、八百万(やほよろづ)の神々や又は祖先の神霊が余り狭隘(けふあい)を感じ玉はずして鎮(しづ)まり給ふのは、凡て神霊は情動想念の世界なるが故に、自由自在に想念の延長を為し得(う)るが故である。三尺四方位の祠を建てておいて下津岩根(したついはね)に大宮柱太敷立(おほみやばしらふとしきたて)、高天原(たかあまはら)に千木高知(ちぎたかし)りて云々と祝詞を奏上するのも、少し許(ばか)りの供物(くもつ)を献じて、横山(よこやま)の如く八足(やたり)の机代(つくゑしろ)に置足(おきた)らはして奉(たてまつ)る云々とある祝詞の意義も、決して虚偽ではない。凡て現界はカタ即ち形(かたち)の世界であるから、その祠も供物も前に述べた不二山の写真に比(ひ)すべきものであつて、神霊界にあつては極めて立派な祠が建てられ、又八百万(やほよろづ)の神々が知食(きこしめ)しても不足を告げない程の供物となつて居(ゐ)るのである。凡て世界は霊界が主で現界即ち形体界が従である。一切万事が霊主体従的に組織されてあるのが、宇宙の真相で大神(おほかみ)の御経綸である。現実界より外(ほか)に神霊界の儼然(げんぜん)として存在(そんざい)する事を知らない人が斯(こ)んな説を聞いたならば定めて一笑に附して顧(かへり)みないでありませう。無限絶対無始無終の霊界の事象は、極限された現界に住む人間の智力では、到底会得(ゑとく)する事は出来ないでせう。
 この物語は、現(げん)、幽(いう)、神(しん)、三界を一貫し、過去と現在 未来を透徹したるが故に、読む人々に由(よ)つて種々(しゆじゆ)と批評が出るでせうが、須(すべか)らく現実界を従とし、神霊界を主として御熟読あらば、幾分か其(その)真相を摑む事が出来るであらうと思ひます。
 惟神霊倍坐世(かむながらたまちはへませ)。
   大正十一年五月廿一日
                                        於松雲閣   口述著者識


                        ○

        掌(てのひら)を覆(かへ)すが如くかはるなり
             善と悪との報いはたちまち

        惟神(かむながら)みちの奥処(おくが)に分け入れば
             万代(よろづよ)散らぬ花の匂へる

                        ○

        我身魂(わがみたま)われの所有(もの)とは思ふまじ
             髪一筋も儘(まま)ならぬ身ぞ

        百千々(ももちぢ)の心の曇り晴れにけり
             雲井(くもゐ)の空の月をし見る夜(よ)に

        思ひきや賤(しづ)が伏家(ふせや)に生(あ)れし身の
             神の大道(おほぢ)に奉仕せむとは








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第十五巻 第二篇 古事記言霊解 <第一一章 大蛇退治の段 (578)>
2008/06/18(Wed)
第十五巻  第二篇  古事記言霊解(こじきことたまかい)


<第一一章 大蛇退治の段(をろちたいぢのだん) (五七八)>

 『故(かれ)、退(やら)はれて、出雲の国の肥河上(ひのかはかみ)なる鳥髪(とりかみ)の地(ところ)に降(くだ)りましき』 (古事記の大蛇退治の段)
 出雲国(いづものくに)は何処諸の国(いづくものくに)と云ふ意義(こと)で、地球上一切の国土である。肥河上は、万世一系(ばんせいいつけい)の皇統(くわうとう)を保ちて、幽顕一致、神徳無窮にして皇朝(くわうてう)の光り晴れ渡り、弘(ひろま)り、極(きは)まり、気形透明にして天体地体を霊的に保有し、支障なく神人(しんじん)充満し、以て協心戮力(けふしんりくりよく)し、完全無欠の神政を樹立する至聖 至厳(しげん) 至美 至清の日本国(にほんこく)といふ事なり。
 鳥髪(とりかみ)の地(ところ)とは、十(たり)の神(かみ)の顕現地と云ふ事にして、厳の御魂(いづのみたま)、瑞の御魂(みづのみたま)が経(たて)と緯(よこ)との神業(しんげふ)に従事し、天地(てんち)を修斎し玉ふ神聖の経綸地といふことなり。要するに世界を大改良せむ為(た)めに素盞嗚尊(すさのをのみこと)は普(あまね)く天下を経歴し、終(つひ)に地質学上の中心なる日本国(にほんこく)の地の高天原(ちのたかあまはら)なる至聖地に降臨し玉ひたるなり。明治三十一年の秋八月に、瑞の御魂の神代(かむしろ)として高座山(たかくらやま)より神退(かむやら)ひに退はれて綾部の聖地に降(くだ)りたるは、即ち素盞嗚尊が、一人(いちにん)の選まれたる神主(かむぬし)に憑依し給ひて、神世開祖(よはね)の出現地に参上(まゐのぼ)りて神の経綸地たることを感知されたるも同様の意味なり。古事記の預言は古今一貫、毫末(がうまつ)も変異なく、且(か)つ謬(あやま)りなき事を実証し得(う)るなり。
 『此時(このとき)しも箸(はし)其の河より流れ下(くだ)りき』
 “ハシ”の霊返(たまかへ)しは“ヒ”なり。“ヒ”は大慈大悲の極みなり。“ハシ”の霊返しの“ヒ”なるもの、“ヒノカハカミ”より流れ来たると云ふ明文(めいぶん)は実(じつ)に深遠なる意義の包含されあるものなり。又箸(はし)は凡(すべ)てを一方に渡す活用あるものにして、川に架(か)する橋も、食物(しよくもつ)を口内(こうない)へ渡す箸も“ハシ”の意味に於ては同一なり。悪を去り善に遷(うつ)らしむる神の教(をしへ)の“ハシ”なり。暗黒社会をして光明(くわうみやう)社会に改善せしむる神教(しんけう)も“ハシ”なり。故に御神諭にも、綾部の大本は世界の大橋(おほはし)であるから、此(この)大橋を渡らねば、何も分りは致さむぞよ云々とあるも、改過遷善(かいくわせんぜん)、立替立直(たてかへたてなほ)しの神教の意味なり。その箸は肥(ひ)の河より流れ下(くだ)りきとは、斯(かか)る立派な蒼生救済(さうせいきうさい)の神教も、邪神の為に情(なさけ)無くも流し捨てられ、日に日に神威(しんゐ)を降(おと)しゆく事の意味なり。是(これ)を大本の出来事に徴(ちよう)して見るに、去る明治三十一年に瑞の御魂の神代として十神(とりかみ)の聖地に降(くだ)りたる神柱(かむばしら)を、某教会や信者が中を遮(さへぎ)り、以て厳の御魂、瑞の御魂の合致的神業(しんげふ)を妨害し、瑞霊(ずゐれい)の神代を追返(おひかへ)し、彼等の徒党が教祖を看板として至厳至重(しげんしちやう)なる神教を潜め隠し、某教会の開設したる如き状態を指して『ハシ其の河よ流れ下りき』といふなり。
 『於(ここ)須佐之男命(すさのをのみこと)其の河上に人有りけりとおもほして尋ね上(のぼ)りて往(いで)まししかば老夫(おきな)と老女(おみな)と二人(ふたり)在(あ)りて童女(おとめ)を中に置きて泣くなり』
 茲(ここ)に顕幽両界の救世主たる須佐之男命は、肥の河上なる日本国の中心、地の高天原(ちのたかあまはら)に神人(しんじん)現はれ、世界経綸の本源地有りと御考へになり尋ねて御上(おあが)りありしが、変性男子(へんじやうなんし)の身魂(みたま)現はれて、国家の騒乱(じようらん)状態を治めむと血涙を吐き乍ら昼夜(ちうや)の区別なく、世人(せじん)を教戒しつつありしなり。二人といふ事は、艮(うしとら)の金神(こんじん)様の男子(なんし)の御魂と、教祖出口直子刀自(とじ)の女子(によし)の身魂とが一つに合体して神業(しんげふ)に従事し玉へると同じ意義なり。“ヒト”とは霊の帰宿する意義で人の肉体に宇宙の神霊憑宿して天地の経綸を遂行(すゐかう)し玉ふ、神の生宮(いきみや)の意なり。老夫(おきな)と老女(おみな)と二人(ふたり)とあるは女姿男霊(によしだんれい)の神人(しんじん)、出口教祖の如き神人を意味するなり。
 『童女(おとめ)を中に置きて泣(なく)なり』とは‘オトメ’は男(を)と女(め)の意味にして、世界中の老若男女を云ふ。又(また)老(お)と若(め)ともなり、現在の世界の人民を称して老若男女(おとめをとめ)と云ふ。霊界にては国常立大神(くにとこたちのおほかみ)、顕界にては神世(しんせい)開祖出口直子刀自(とじ)の老夫(おきな)と老女(おみな)とが、世界の人民の身魂(みたま)の、日に月に邪神の為に汚(けが)され亡ぼされむとするを見るに忍びず、手を尽して足を運びて救助せむと艱難辛苦を嘗めさせられ、天地(てんち)の中に立ちて号泣し給ふことを、童女(おとめ)を中に置きて泣くなりと云ふなり。
 亦(また)神の御眼(おんめ)より御覧ある時は世界の凡ての人間は、神の童子(むすこ)なり女子(むすめ)なり。故に世界の人民は皆(みな)神の童女(こども)なる故、人民の親がその生みし子を思ふ如くに、神は人民の為に昼夜(ちうや)血を吐く思ひを致して心配を致して居(を)るぞよ、と御神諭に示させ給へる所以なり。亦‘オトメ’の言霊を略解する時は、
 ‘オ’は親の位であり、親子(しんし)一如(いちによ)にして、大地球を包む活用であり。
 ‘ト’は十全治平(じふぜんちへい)にして、終始一貫の活用であり。
 ‘メ’は世を透見し、内に勢力を蓄へて外面に露(あら)はさざる意義なり。
 之を約(つづ)むる時は、日本固有の日本魂(やまとだましひ)の本能にして、花も実もある神人(しんじん)の意なり。
 『汝等(いましたち)は誰(た)ぞと問ひ賜へば、其の老夫(おきな)僕(あれ)は国津神 大山津見神(おほやまづまのかみ)の子なり、僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)、妻(め)が名は手名椎(てなづち)、女(むすめ)が名は櫛名田比売(くしなだひめ)と謂(まを)すと答(まを)す』
 明治三十一年の秋瑞(みづ)の御魂(みたま)の神代(かむしろ)に須佐之男神(すさのをのかみ)神(かむ)懸りしたまひて綾部の地の高天原(たかあまはら)に降(くだ)りまし、老夫(おきな)と老女(おとめ)の合体神なる出口教祖に対面して汝等(いましら)は誰(たれ)ぞと問ひたまひし時に、厳の御魂(いづのみたま)の神代(かむしろ)なる教祖の口を籍(か)りて僕(あ)は国津神の中心神にして大山住の神(おほやまずみのかみ)也。神の中の神にして天津神の足名椎となり手名椎となりて、天(あめ)の下の‘オトメ’を平かに安らかに守り助けむとして、七年(ななとせ)の昔より肥(ひ)の河上に御禊(みそぎ)の神事(しんじ)を仕へ奉(まつ)れり。又この肉体の女(むすめ)の名は櫛名田姫(くしみこ)と申し、本守護神は禁闕金の大神(きんかつかねのおほかみ)なりと謂(まを)し玉ひしは、以上の御本文(ごほんもん)の実現なり。‘クシナダ’の
 ‘クシ’は神智(しんち)赫々(くわくくわく)として万事に抜目なく一切の盤根錯節(ばんこんさくせつ)を料理し、快刀乱麻を断つの意義なり。
 ‘ナ’は、万物を兼ね統(す)べ、能く行届きたる思ひ兼(かね)の神の活用なり。
 ‘ダ’は、麻柱(あななひ)の極府(きよくふ)にして大造化の器であり、対偶力(たいぐうりよく)であり、主従師弟夫妻等の縁を結ぶ神なり。
 要するに、櫛名田姫の守護厚き天壌無窮(てんじやうむきう)の神国、大日本国土(だいにほんこくど)の国魂神(くにたまがみ)にして、神諭の所謂(いはゆる)大地の金神なり。
 『亦、汝(いまし)の哭(なく)由(ゆゑ)は何ぞと問ひたまへば、吾(あ)が女(むすめ)は八稚女(やおとめ)在りき。是(ここ)に高志(こし)の八岐遠呂智(やまたのをろち)なも、年毎に来て喫(く)ふなる。今その来(き)ぬべき時なるが故に泣くと答白(まを)す』
 以上の御本文(ごほんもん)を言霊学(ことたまがく)の上より解約すると、吾(わ)が守護する大地球上に生息する、息女(むすめ)即ち男子(をのこ)や女子(をみな)は、八男と女(やをとめ)と云つて、種々の沢山な神の御子(みこ)たる人種民族が有るが、年と共に人民の霊性は、鬼蛇(おにをろち)の精神に悪化し来(きた)り至粋至醇(しすゐしじゆん)の神の分霊を喫(く)ひ破られて了つた。高志(こし)の八岐の遠呂智(やまたのをろち)と云ふ悪神(わるがみ)の口や舌の剣(つるぎ)に懸つて歳月(としつき)と共に天を畏れず地の恩恵(めぐみ)を忘れ、不正無業(ふせいぶげふ)の行動を為すものばかり、人民の八分迄は、皆悪神(あくがみ)の容器(いれもの)に為(さ)れて、身体(からだ)も霊魂(みたま)も、酔生夢死(すゐせいむし)体主霊従に落下し、猶(なほ)も変じて八岐の遠呂智の尾となり盲従を続けて、天下の騒乱(じようらん)、国家の滅亡を来(きた)しつつ、最後に残る神国(しんこく)の人民の身魂(みたま)までも、喫(く)ひ破り亡ぼさむとする時機が迫つて来たので如何にしてか此の世界の惨状を救ひ助け、天津大神に申上げむと、心を千々(ちぢ)に砕き天下国家の前途を思ひはかりて、泣き悲しむなりと答へ玉うたと曰(い)ふことなり。
 高志(こし)といふ意義は、遠き海を越した遠方の国であつて、日本(にほん)からいへば支那や欧米各国のことなり。海外より種々雑多の悪思想が渡来する。手を替へ品を替へて、宗教なり、政治なり、教育なりが盛んに各時代を通じて、侵入して来(きた)り敬神尊皇報国の至誠を惟神的(かむながらてき)に具有する、日本魂(やまとだましひ)を混乱し、滅絶(めつぜつ)せしめつつある状態を称して、高志の八岐の遠呂智の喫(く)ふなると云ふなり。亦外国の天地(てんち)は、数千年来此(この)悪神(わるがみ)の計画に誑(たぶ)らかされて、上下無限(じやうかむげん)の混乱を来(きた)し、国家を亡ぼし来たりしが、彼(かれ)今猶(いまなほ)其(その)計画を盛んに続行しつつ、遂に日本神国(にほんしんこく)の土地まで侵入し、天津神の直裔なる日本(やまと)オトメの身魂まで、全部喫(く)ひ殺さむとする、それが最近に迫つて居(ゐ)る、只一つ神国固有の日本魂(やまとだましひ)なるオトメが後(あと)に遺(のこ)つた許(ばか)りである。之を悪神(あくがみ)の大邪霊に滅ぼされては、折角天祖 国祖の開き玉へる大地球を救ふ事は出来ない。どうかして之を助けたいと思つて艱難辛苦(かんなんしんく)を甞(な)めて居(を)るのである。実に泣くにも泣かれぬ、天下の状態であると云つて、之を根本的に救ふ事は出来ない。どうして良いかと途方に暮れ、天地に向つて号泣して居(を)りますとの、変性男子(へんじやうなんし)の身魂の御答へなりしなり。
 『其の形は如何さまにかと問ひたまへば、彼(それ)が目は赤加賀知(あかかがち)なして、身一つに頭(かしら)八つ尾八つあり。亦其の身に苔(こけ)、及び桧(ひ)、すぎ生(お)ひ、其の長さ渓(たに)八谷(やたに)、峡(を)八尾(やを)を渡りて、其の腹を見れば、悉(ことごと)に常(いつも)血爛(ただ)れたりと答白(まを)す。《此(ここ)に赤加賀知(あかかがち)といへるは、今のほほづきなり》』
 そこで其形(そのかたち)は如何さまにかと、問ひたまへばと云ふ意義(こころ)は、八岐の遠呂智なす悪思想の影響は如何なる状態に形(あら)はれ居(を)るやとの須佐之男命(すさのをのみこと)の御尋ねなり。
 そこで変性男子(へんじやうなんし)の身魂なる老夫(おきな)と老女(おとめ)は、彼(かれ)悪神(わるがみ)の経綸の事実上に顕現したる大眼目(だいがんもく)は、赤加賀知なして身一つに、頭(かしら)八つ尾八つありと云つて、悪神(わるがみ)の本体は一つであるが、その真意を汲んで、世界覆滅の陰謀に参加して居(を)るものは、八人の頭株(あたまかぶ)であつて、此の八つの頭株は、全地球の何処にも大々的に計画を進めてをるのである。政治に、経済に、教育に、宗教に、実業に、思想上に、其他の社会的事業に対して陰密(いんみつ)の間(あひだ)に、一切の破壊を企てて居(ゐ)るのである。就(つい)ては、尾の位地にある、悪神(わるがみ)の無数の配下等(ら)が、各方面に盲動して知らず識らずに、一人(いちにん)の頭目と、八つの頭(かしら)の世界的大陰謀に参加し、終(つひ)には既往(きわう)五年に亘(わた)つた世界の大戦争などを惹起(じやくき)せしめ、清露(しんろ)其他の主権者を亡ぼし、労働者を煽動して、所在(あらゆる)世界の各方面に、大惑乱を起しつつあるのである。赤加賀知とは砲煙弾雨、血河死山(けつかしざん)の惨状や、赤化運動の実現である。実に現代は八岐の大蛇(やまたのをろち)が、いよいよ赤加賀知の大眼玉(おほめだま)をムキ出した所であり、既に世界中の七(なな)‘オトメ’を喫ひ殺し、今や最後の肥の河(ひのかは)なる、日本(にほん)までも現界幽界一時(いちじ)に喫はむとしつつある処である。要するに八つ頭(やつがしら)とは、英とか、米とか、露とか、仏とか、独とか、伊とかの強国に潜伏せる、現代的大勢力の有る、巨魁の意味であり、八つ尾(やつを)とは、頭(かしら)に盲従せる数多の部下の意である。頭(かしら)も尾も寸断せなくては成らぬ時機となりつつあるなり。
 『亦其身に苔及び桧(ひ)すぎ生(お)ひ、其長さ、渓(たに)八谷(やたに)、峡(を)八尾(やを)を渡りて其の腹を見れば、悉(ことごと)に常(いつ)も血爛(ただ)れりと答白(まを)す』といふ意味は地球上の各国は皆この悪神(あくがみ)蛇神(だしん)の為に、山の奥も水の末(すゑ)も暴(あら)され、不穏の状態に陥り、終(つひ)には尼港(にかう)事件の如く、暉春(こんしゆん)事件の如く、染血(せんけつ)虐殺の憂目に人類が遇(あ)つて、苦悶して居(ゐ)ることの形容である。また苔と云ふ事は、世界各国の下層民の事であり桧(ひ)と云ふ事は上流社会の人民であり、‘すぎ’と云ふ事は国家の中堅たる中流社会である。要するに上中下の三流の人民が常に不安の念に駆られて居(を)る事であつて、実に六親眷属(ろくしんけんぞく)相(あひ)争ひ、郷閭(きやうりよ)相鬩(せめ)ぎ戦ふ、悲惨なる世界の現状を明答されたといふ事である。御神諭に、『今の人民は外国の、悪神(あくがみ)の頭(かしら)と眷属とに、神から貰うた結構な肉体と御魂(みたま)を自由自在に汚(けが)されて了(しま)うて、畜生餓鬼の性来(しやうらい)になりて居(を)るから、慾に掛けたら、親とでも兄弟とでも、公事(くじ)を致すやうな悪魔の世になりて居(を)るが、是では世は続いて行かぬから、天からは御三体の大神様がお降(くだ)り遊ばすなり、地からは、国常立尊(くにとこたちのみこと)が変性男子(へんじやうなんし)と現はれて、新(さら)つの世に立替立直して、松の五六七(まつのみろく)の世に致して、世界の人民を歓ばし、万劫末代(まんごまつだい)勇んで暮す神国の世に替へて了(しま)はねばならぬから、艮の金神(うしとらのこんじん)は、三千年の間(あひだ)長い経綸(しぐみ)を致して、時節を待ちて居(を)りたぞよ。八つ尾八つ頭の守護神を、今度はさつぱり往生いたさすぞよ』云々と明示されてあるのも、要はこの御本文(ごほんぶん)の大精神に合致して居(ゐ)る一大事実である。
 『爾(かれ)、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、其の老夫(おきな)に是(これ)汝(いまし)の女(むすめ)ならば、吾(われ)に奉(たてまつ)らむやと詔(のり)たまふに、恐(かしこ)けれど御名(みな)を覚らずと答白(まを)せば、吾(あ)は天照大御神の同母男(いろを)なり。故(かれ)今(いま)天(あめ)より降(くだ)り坐(まし)つと答へたまひき。爾(ここ)に足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)、然坐(しかま)さば恐(かしこ)し立奉(たてまつ)らむと白(まを)しき』
右御本文(ごほんもん)の老夫(おきな)にとあるは艮の金神 国常立尊神霊に対しての御言(みこと)である。また足名椎 手名椎神(てなづちのかみ)と並び称せるは、肉体は出口直子であつて手名椎の神であり霊魂(みたま)は国常立尊の足名椎の意である。
 茲(ここ)に天(あめ)より降(くだ)り給へる須佐之男命は、老夫(おきな)なる国常立尊の神霊に対し玉ひて、是は汝(いまし)の守護し愛育する所の、至粋至醇の神の御子(みこ)たる優(うるは)しき人民であるなれば、吾(あれ)に是の女(むすめ)の如き可憐なる万民の救済を一任せずやと、御尋ねになつた事である。そこで国常立尊は実に恐縮の至りではありますが、貴方は如何なる地位と、御職掌(ごしよくしやう)の在(ま)す神で居(ゐ)らせらるるや。御地位と御職名とを覚(し)らない以上は御一任する事は出来ませぬと白(まを)し給ひければ、大神(おほかみ)は至極(しごく)尤(もつと)もなる御尋ねである。然(さ)らば吾(あ)が名を申し上げむ、吾(あ)は天津高御座(あまつたかみくら)に鎮まり坐(ゐ)ます、掛巻(かけまく)も畏(かしこ)き天照大御神の同母弟(どうぼてい)であつて、大海原を知食(しろしめ)すべき職掌である。されば今世界の目下の惨状を黙視するに忍びず、万類(ばんるゐ)救護の為に、地上に降(くだ)り来たのである。故に国津神たる汝(いまし)の治むる万類万民を救はむが為に、吾(あれ)に其の職掌を一任されよ然らば汝(いまし)と共に八岐の大蛇(やまたのをろち)の害を除いて天下を安国(やすくに)と平けく進め開かむと仰せになつたのである。茲(ここ)に変性男子(へんじやうなんし)の身魂は、大変に畏(かしこ)み歓び玉うて、左様に至尊(しそん)の神様に坐(まし)ますならば吾女(あがむすめ)なる可憐なる人民を貴神に御預け申すと、仰せられたのである。是は去る明治三十一年の秋に変性男子と変性女子(へんじやうによし)との身魂が二柱(ふたはしら)揃うて神懸りがあつた時の御言(みこと)であつて、実に重大なる意義が含まれて在(あ)るのである。然し乍ら是は神との問答でありまして、人間の肉体上に関する問題ではないから、読者の誤解の無いやうに御注意願つておく次第である。
 『爾(かれ)速須佐之男命、乃(すなは)ち、其の童女(むすめ)を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に取成(とりな)して、御角髪(みみづら)に刺して、其の足名椎、手名椎神に告(の)りたまはく、汝等(いましたち)、八塩折(やしほをり)の酒を醸(か)み、且(また)、垣を造り迴(もとほ)し、その垣に八つの門(かど)を造り、門毎に八つの桟敷(さじき)を結ひ、その桟敷毎に酒船(さかぶね)を置きて船毎にその八塩折(やしほをり)の酒を盛りて、待ちてよと、のりたまひき』
 湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の言霊を略解すれば、
 ‘ユ’は、天地、神人(しんじん)、顕幽、上下(じやうか)一切を真釣合(まつりあは)せ、国家を安寧(あんねい)に、民心を正直(せいちよく)に立直す大努力の意であり、
 ‘ツ’は、日の大神の御稜威(みいづ)を信じ、大金剛の至誠心を振り起し、言心行一致の貫徹を期し、以て神霊の極力を発揮するの意である。
 ‘ツ’は、生成化育の大本(たいほん)合致し、大決断力を発揮し、実相真如の神民たりとの意である。
 ‘マ’は、人種中の第一位たる資格を保ち、胸中常に明かにして無為円満なる意である。
 ‘グ’は、暗愚(あんぐ)を去つて賢明に帰し、万事神助を得て意の如く物事成功するの意である。
 ‘シ’は、信仰堅く、敬神尊皇報国の忠良なる臣民の基台(もとゐ)なりとの意である。
 以上の六言霊(ろくげんれい)を総合する時は、霊主体従の真(しん)の日本魂(やまとだましひ)を発揮せる神の御子(みこ)と立直し玉ふ、神の経綸(けいりん)を進むると謂(ゐ)ふことである。
 御角髪(みみづら)の言霊(ことたま)を略解すれば、
 ‘ミ’は、形体具足成就して、日本神国(にほんしんこく)の神民たる位を各自に顕はし定めて真実を極め、以て瑞の御魂に合一する意である。
 ‘ミ’は、su1-2(す=丸の中に)の御威徳を明かに覚知(かくち)し、惟神(かむながら)の大道(だいだう)を遵奉し実行し、以て玲瓏(れいろう)たる玉の如き身魂と成るの意である。
 ‘ツ’は、神の分身分霊として天壌無窮(てんじやうむきう)に真(しん)の生命を保全し、肉体としては君国を守り、霊体としては神と人民とを助け守るの意である。
 ‘ラ’は、言心行(げんしんかう)の三事(さんじ)完全に実現し、本末一貫、霊主体従の臣民と成りて、自由自在に本能を発揮するの意である。
 以上の四言霊(しげんれい)を総合する時は、愈(いよいよ)日本魂(やまとだましひ)の実言実行者となりて、其の霊魂(みたま)は神の御列(みれつ)に加はるべき真(しん)の御子(みこ)と成りたる意である。
 要するに、瑞の霊魂(みづのみたま)なる速須佐之男命は、二霊一体なる神政開祖(いづのみたま)の神人(しんじん)より、男(お)と女(め)の守護と化育とを一任され一大金剛力を発揮して、本来の日本魂(やまとだましひ)に立替へ立直し、更に進んで其の実行者とし賜ふた事を『其の‘オトメ’を‘ユツツマグシ’に取成(とりな)して御角髪(みみづら)に刺して』と言ふのである。
 斯(かく)の如く、天下の万民の身魂の改良を遊ばして、足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)の御魂(みたま)に御渡しになるに就(つい)ては、相当の歳月(さいげつ)を要したのである。或は神徳を以てし、或は物質力を以てし、或は自然力を以てし、或は教戒を以てし、慈愛を以てし、種々(しゆじゆ)の御苦辛を嘗めさせ玉ふ其(その)神恩を忘れては成らぬのである。そこで速須佐之男命は、足名椎手名椎なる変性男子(へんじやうなんし)の霊魂(みたま)に対(むか)つて告(の)り給ふた御言葉(みことば)は左(さ)の通りである。幸ひ残れる‘オトメ’は斯(かく)の如く、湯津爪櫛(ゆつつまくじ)に取成し、御角髪(みみづら)に刺(さし)て立派に日本魂(やまとだましひ)を造り上げたと云ふ事は、全く天津神の御霊徳と、吾(あが)御魂(みたま)の活動と、汝(なが)命(みこと)の至誠の賜(たまもの)であるから、第一に天地(あめつち)八百万の神(やほよろづのかみ)に、精選した立派な美味なる、所謂(いはゆる)八塩折(やしほをり)の神酒(みき)を醸造し、且(か)つ汚穢(をくわい)を防ぐ為に清らかな瑞垣(みづがき)を四方(よも)に作り廻して、其の垣毎に祭壇を設け《八つ門(やつかど)》て、祭壇毎に祝詞座(のりとざ)を拵へ、酒を甕(みか)の戸(へ)高知(たかし)り甕(みか)の腹満(はらみ)て並べて神々に報恩謝徳の本義を尽すべく、詔(の)りたまふたものである。凡(すべ)て酒と云ふものは、大神(おほかみ)に献(たてまつ)る時は、第一に御神慮を和げ勇ませ歓ばせ奉(たてまつ)る結構な供へ物であるが、体主霊従的の人間が之を飲むと決して碌(ろく)な事は出来ないのである。同じ種類の酒でも、人間は御魂相応に、種々の反応を来すものであつて、悪霊(あくれい)の憑(かか)つた人間が呑めば直ちに言語や、動作や精神が悪の性来(しやうらい)を現はし、且つ酔ひ且つ狂ひ暴れるものである。或は泣くもの、笑ふもの、怒(いか)るもの、妙な処へ行きたくなるものなぞ、種々雑多に変化して、身魂(みたま)の本性(ほんしやう)は現はし、吐いたり倒れたり苦しみ悶えたりするものである。常に至誠至実の人にして、心魂(しんこん)の下津岩根(したついはね)に安定したものは、仮令(たとへ)酒を常に得(え)呑まぬ人でも、少々位(くらゐ)時に臨んで戴いた所が、決して前後不覚になつたり、倒れたり苦しんだり、動作や言舌(げんぜつ)や精神の変乱するもので無く、心中益々壮快を覚え、笑み栄え勇気を増し、神智(しんち)を発揮するものである。故に酒は神様に献(たてまつ)る所の清浄なる美酒と雖(いへど)も、心の醜悪(しうあく)なるものが呑む時は、忽ち身魂を毒し弱らしむるものである。同じ酒を甲(かふ)は一合呑んで酔ひ潰れて了(しま)ふかと思へば、乙(おつ)は一升呑んでも酔はず、丙(へい)は三升呑まなくては少しも酔うた如(や)うな心持がしないと、云ふ区別の附くのは、乃(すなは)ち身魂の性質に依りて反応に差異がある事の証(しよう)である。甲は呑んで笑ひ、乙は怒(いか)り、丙は泣くと云ふ如(や)うに、同じ味のある同じ種類の酒でも、実に不思議なもので、是(これ)はどうしても身と魂(たま)との性来(しやうらい)関係に依るものである。
 『故(かれ)、告(の)りたまへる随(まま)にして、如此(かく)設け備へて待つ時に、其の八岐大蛇(やまたをろち)、信(まこと)に言ひしが如(ごと)来(き)つ。乃(すなは)ち、船毎に、己々(おのもおのも)頭(かしら)を垂入(たれ)て、その酒を飲みき、於是(ここに)、飲み酔ひみな伏寝(ふしね)たり。爾(すなは)ち速須佐男命、その御佩(みはか)せる十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きて、その大蛇(をろち)を切散(きりはふ)りたまひしかば肥の河(ひのかは)、血に変りて流れき』
 そこで変性男子(へんじやうなんし)の身魂は命(みこと)の随々(まにまに)芳醇なる神酒を造りて、天地(てんち)の神明を招待し、以て歓喜を表(へう)し賜ひ、神恩を感謝し給ふたのである。八岐の大蛇の霊に憑依された数多の悪神(わるがみ)の頭目(かしら)や眷族共が大神酒(おほみき)を飲んで了つた。丁度今日(こんにち)の世の中の人間は、酒の為に腸(はらわた)までも腐らせ、血液の循環を悪くし、頭(かしら)は重くなり、フラフラとして行歩(かうほ)も自由ならぬ、地上に転倒して前後も弁知せず、醜婦(しうふ)に戯れ家を破り、知識を曇らせ、不治の病を起して悶え苦しんで居(ゐ)るのは、所謂(いはゆる)「飲み酔ひて皆伏寝(ふしいね)たり」と云ふことである。爾(ここ)に於て瑞の御霊(みづのみたま)の大神(おほかみ)は、世界人民の不行跡(ふぎやうせき)を見るに忍びず、神軍を起して、此の悪鬼蛇神(あくきだしん)の憑依せる、身魂を切り散(ち)らし、亡ぼし給ふたのである。十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きてし云ふ事は遠津神(とほつかみ)の勅定(つるぎ)を奉戴して破邪顕正の本能を発揮し給うたと云ふことである。そこで肥の河(ひのかは)なる世界の祖国日の本(ひのもと)の上下(じやうか)一般の人民は、心から改心をして、血の如き赤き真心となり、同じ血族の如く世界と共に、永遠無窮に平和に安穏(あんおん)に天下が治まつたと云ふ事を「肥の河(ひのかは)血に変(な)りて流れき」と云ふのである。流れると云ふ意義は幾万世(いくばんせい)に伝はる事である。古事記の序文に、後葉(こうえふ)に流(つた)へんと欲すとあるも、同義である。
 『故(かれ)其の中の尾を切りたまふ時、御刀(みはかし)の刃(は)毀(か)けき。怪しと思ほして、御刀(みはかし)の端(さき)もて刺割(さしさ)きて見そなはししかば、都牟刈之太刀(つむがりのたち)あり。故(かれ)此(この)太刀を取らして、怪異(あや)しき物ぞと思ほして天照大御神(あまてらすおほみかみ)に白(まを)し上げたまひき。是(こ)は草薙太刀(くさなぎのたち)なり』
 中の尾と云ふ事は、葦原の中津国の下層社会の臣民の事である。其(その)臣民を裁断して、身魂を精細に解剖点検し玉ふ時に、実に立派な金剛力の神人(しんじん)を認められた状態を称して、御刀(みはかし)の刃(は)毀(か)けきと云ふのである。アヽ実に予想外の立派な救世主の身魂が、大蛇(をろち)の中の尾なる社会の下層に隠れ居(を)るわい。是は一つの掘り出しものだと謂(ゐ)つて、感激されたことを、怪しと思ほしてと云ふのである。御刀(みはかし)の端(さき)もてと云ふ事は、天祖の御遺訓の光に照し見てと云ふ事である。
 『刺割(さしさ)きて見そなはししかば都牟刈之太刀(つむがりのたち)あり』と云ふことは今迄の点検調査の方針を一変し、側面より仔細に御審査になると、四魂五情(しこんごじやう)の活用全き大真人(だいしんじん)が、中の尾なる下層社会の一隅(いちぐう)に、潜みつつあつたのを初めて発見されたと云ふことである。都牟刈之太刀とは言霊学上より解すれば三千世界の大救世主にして、伊都能売(いづのめ)の身魂と云ふ事である。故(かれ)、此(この)太刀なる大救世主の霊魂(たま)を取り立て、異数の真人(しんじん)なりと驚歎(きやうたん)され、直ちに天照大御神様、及びその表現神に大切なる御神器として、奉献されたのである。凡ての青人草(あをひとぐさ)を神風(かみかぜ)の吹きて靡(なび)かす如く、徳を以て万民を悦服せしむる一大真人(いちだいしんじん)、日本国(にほんこく)の柱石にして世界治平の基(もとい)たるべき、神器的真人を称して、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云ふのである。八岐大蛇(やまたをろち)の暴狂(あれくる)ひて万民の身魂を絶滅せしめつつある今日、一日(いちにち)も早く草薙神剣(くさなぎのしんけん)の活用ある、真徳の大真人(だいしんじん)の出現せむことを、希望する次第である。
 また草薙剣(くさなぎのつるぎ)とは、我(われ)日本(にほん)全国の別名である。この神国を背負つて立つ処の真人は、即ち草薙神剣(くさなぎのしんけん)の霊魂(みたま)の活用者である。
                                 (大正九・一・一六 講演筆録 谷村真友)


        穢れたる浮世の泥を清めむと
             世に伊都能売(いづのめ)の神のいさほし







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第十巻 酉の巻 総説歌
2008/06/08(Sun)
第十巻 酉の巻  総 説 歌


 世は常暗となり果てて                 再び天(あま)の岩屋戸(いはやど)を
 開く由(よし)なき今の世は               心も天(あま)の手力男(たぢからを)
 神の御出(みで)まし松虫の              鳴く音(ね)も細き秋の空
 世の憂事(うさごと)を菊月(きくづき)の        十(とう)まり八(や)つの朝(あした)より
 述べ始めたる霊界の                  奇(く)しき神代の物語
 三(み)つの御魂(みたま)に因みたる         三筋(みすぢ)の糸に曳(ひ)かれつつ
 二度目の岩戸を開き行く               一度に開く木の花(このはな)の
 色香(いろか)目出度き神嘉言(かむよごと)    常世の国の自在天
 高く輝く城頭(じやうとう)の              三ツ葉葵(あふひ)の紋所(もんどころ)
 科戸(しなど)の風に吹きなびき           思想の洪水氾濫し
 ヒマラヤ山頂浸(ひた)せども             明(あけ)の烏(からす)はまだ啼(な)かず
 長鳴鳥(ながなきどり)も現はれず          橄欖山(かんらんざん)の嫩葉(わかば)をば
 啣(ふく)みし鳩の影もなし               天地(てんち)曇りて混沌と
 妖邪の空気充ち充ちて                人の心は腐りはて
 高天原(たかあまはら)に現はれし          ノアの方舟(はこぶね)尋ね侘び
 百(もも)の神人(かみびと)泣き叫ぶ         阿鼻叫喚の惨状を
 救ひ助くる手力男(たぢからを)の          神は何(いづ)れにましますぞ
 天(あめ)の宇受女(うづめ)の俳優(わざをぎ)の   歌舞音曲は開けども
 五(い)つの伴男(とものを)はいつの日か      現はれ給ふことぞかし
 つらつら思ひめぐらせば               天(あま)の手力男(たぢからを)坐(ま)しませど
 手を下(くだ)すべき余地もなく            鈿女(うづめ)舞曲を奏(そう)しつつ
 独り狂へる悲惨さよ                  三五教(あななひけう)の御諭(みさと)しは
 最後の光明(くわうみやう)艮(とど)めなり      ナザレの聖者キリストは
 神を楯としパンを説き                 マルクス麺麭(パン)もて神を説く
 月照彦の霊(たま)の裔(すゑ)            印度の釈迦の方便は
 其侭(そのまま)真如実相か             般若心経を宗(しう)とする
 竜樹菩薩(りうじゆぼさつ)の空々(くうくう)は     これまた真理か実相か
 物理に根ざせる哲学者               アインスタインの唱へたる
 相対性の原理説は                  絶対真理の究明か
 宗教学者の主張せる                 死神死仏(ししんしぶつ)を葬りて
 最後の光は墓を蹴り                 蘇へらすは五六七神(みろくしん)
 胎蔵(たいざう)されし天地(あめつち)の       根本改造の大光明(だいくわうみやう)
 尽十方無碍光如来(じんじつぱうむげくわうによらい)なり   菩提樹の下(もと)聖者をば
 起(た)たしめたるは暁(あかつき)の         天明(てんめい)閃(ひらめ)く太白星(たいはくせい)
 東の方(かた)の博士(はかせ)をば         馬槽(ばそう)に導く怪星も
 否定の闇を打破(うちやぶ)る            大統一の太陽も
 舎身供養の炎まで                 残らず五六七(みろく)の顕現ぞ
 精神上の迷信に                  根ざす宗教は云ふも更
 物質的の迷信に                  根ざせる科学を焼き尽し
 迷へる魂(たま)を神国(かみくに)に        復(かへ)し助くる導火線と
 秘かに密かに唯一人               二人の真(まこと)の吾(わが)知己(ちき)に
 注がむ為の熱血か                 自暴自爆の懺悔火か
 吾(われ)は知らずに惟神(かむながら)      神のまにまに述べ伝ふ
 心も十(たり)の物語                はつはつ爰(ここ)に口車(くちぐるま)
 坂の麓にとどめおく                あヽ惟神々々
 御霊(みたま)幸はへましませよ。

                        ○

 三箇の桃と現はれし               松、竹、梅の姉妹(おとどい)が
 獅子奮迅の大活動                智仁勇をば万世(よろづよ)に
 残す尊(たふと)き言の葉(ことのは)の     いや永久(とこしへ)に茂りつつ
 八洲(やしま)の国の礎(いしずゑ)を       造り固めしその如く
 数多(あまた)の人を大神(おほかみ)の    誠の道に誘(いざな)ひて
 雄々しき魂(たま)となさしめよ         黄泉比良坂大峠(よもつひらさかおほたうげ)
 昔も今も同じこと                 三(み)つの御魂(みたま)に神(かむ)習ひ
 三月三日の桃の花               五月五日の桃の実と
 なりて御国(みくに)に尽せかし         神は汝と倶(とも)にあり
 御仁慈(みなさけ)深き大神の         御手(みて)に曳かれて黄泉国(よもつくに)
 うとび来(きた)らむ曲神(まがかみ)を     誠の教(をしへ)の剣もて
 善言美辞(ぜんげんびじ)に打払ひ      その身その侭(まま)神となり
 皇御国(すめらみくに)に御爲(おんため)に  力限りに尽せよや
 神を離れて神に就(つ)き            道に離れて道守る
 誠一つの三五教の               月の心を心とし
 尽す真人(まびと)ぞ頼母(たのも)しき     あヽ惟神々々
 御霊(みたま)の幸(さち)を賜(たま)へかし。

大正十一年二月廿七日 旧二月一日
                                   於竜宮館   王  仁  識

                        ○

        大神の御霊(みたま)の宿る肉の宮に
             曲津の神のすぐふべしやは


        かむながらたふとき道を歩む身は
             高天原(たかあまはら)に清処(すがど)を持つなり




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第二十巻 如意宝珠 未の巻 <凡 例>
2008/05/08(Thu)
凡   例


 ストーナー夫人は言つてゐる。『総(すべ)ての子供は生れながら、第六の感覚 − 諧謔(ユーモア)の感じを持つてゐる。しかし多くの者は、その育つ環境のためにこの感覚を鈍らされ、或(あるひ)は夙(と)くから失つてしまふものである。楽しいものを見ても、笑ふ − 心の底から笑ふことが出来ず、苦笑(にがわら)ひや忍び笑ひすら出来ない人間ほど哀れに思はれるものはない。顔面筋肉の痙攣(けいれん)のために、冷笑したやうな表情に苦しむ人の如く、絶えず歯を露(あら)はしてゐる必要は少しもない。が小さい時から愛とほほゑみに取りまかれて育つた子供は、実に自然に笑ひ、またユーモアに敏感である。彼は苦悩の真中(まんなか)に在(あ)つても、あらゆる事物の面白い半面を眺めることが出来る。彼は常に楽天家である。そしてこの事は、世の中で成功する男も女も、楽天家であるといふ事実を証明するものである。真(しん)の厭世家(えんせいか)が勝利を得(う)ることは決してない』と。実際夫人の言つてゐるやうに『笑ひ』位人間生活にとつて貴(たふと)いものはない。『笑ひ』は人間の本能である。殊(こと)に日本人(にほんじん)は一般に諧謔(ユーモア)好き、喜び好きで悲しみが嫌ひだといはれる。我々は何時(いつ)までもペシミズムの暗い室(へや)の中にうめいてゐる必要はない。『霊界物語』の読者は、このストーナー夫人の言(げん)を味はつて見る必要がある。『物語』を読んで笑ふことの出来る人は幸福である。馬鹿らしいと感ずる人は、きつと不幸な人に相違ない。

   大正十二年三月三日                        編 者 識



     老若の区別(けじめ)もしらにゑらゑらと
          ゑらぎ親しむ神の道なり




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